creare - クレアーレ

・"いか"に表現するかを学校では教えるんです。"なぜ"表現するかは教えないんです。

 何校かの学校で講師をやっているんですが、なかなかどうして面白いことが多いです。生意気な学生ほどいきなり伸びたりするんです。それに対して一生懸命可愛がってきた学生はそこまで出世しない。その辺の“裏切り”が面白いですよね。本当は私は生意気な学生は嫌いで、それは一生懸命顔に出さないよう努力しているんですが、そういう学生にばかりに好かれるんです。そして、そういう学生に限って化けますね。やはり生意気なほうが自分を表現するパワーが大きいんでしょう。

 過去に「白の表現」についての授業をやりました。「雪のように白い」だとか、「歯のように白い」だとか。そういう垢のついた表現をしたらクリエーターとして終わり、と100個ほどあらかじめNGワードを上げておく。それで被ったらダメと順番に学生を指していくんです。「答えられなかったら、この授業の責任持てよ」なんて追い詰めていって、1周するとみんな気が緩むんですが、そこから「じゃ、これからが本番だから」ともう1周。みんなパニック状態です。

 でも人間必死になると、いい答えが出てくるときがあるんですよね。それがその生意気な学生なんです。「どうせろくなこと言わないな」と思っていたら、その学生が「午後のノートのように白い」と言ったんです。

 確かに午後のノートは白い。昼過ぎで疲れて、教員は板書ばかりしてる。それでノートなんて取る気が起きなくて、ページは真っ白。さらに西日が当たって、その光が目に刺さるよう……というアンニュイが伝わってくるんです。思わず「いい!お前認める!」と言ってしまいました。

 追い込むことは結構大事で、そういう極限状態になってこそ出てくるアイデアがあるんです。小説家などとくに自身でやられる方も結構多いのではないかと思うんです。自分から苦しんで、追い込んでいくタイプ。芥川龍之介とか三島由紀夫とかね。あれ以上生きられないというところまで、自分を追い込んでしまったんですから。

 ですが逆に楽しんでいる人も当然いるんです。私なんかもそうなんですが、やりたい放題やってきました。

 たとえば、私の大学にあった研究室は「朔美Bar」と呼ばれてて、冷蔵庫の中にはお酒しか入ってないことで有名でした。おまけに室内の照明は全部間接照明へと付け替えた。さらには、普通はガラス扉なんですが、私の部屋だけ鉄扉だったんです。薄暗いし、外からの視界も遮断されてて、本当にバーみたいでした。

 そんなことばかりしていて、仕事しているという感じが全然ないんですよね。私みたいに発散していくタイプと、追い込んでいくタイプと。

 どうやったらがんじがらめの日常の中でいかにクリエーティブの翼を広げられるか。何作かやっていくうちに、きっと自分にあったスタイルが見つかると思います。

 講師は今でも続けています。長く続けていると見えてくることも当然あるんです。学校が教えていることとは、“いかに”表現するか、なんですよね。つまり表現をする方法は教えてくれるわけです。しかし“なぜ”表現するか、までは教えない。これは一番大事なことですが、学校では教えてくれない。それは教えるのが難しいということでもあるのかもしれないし、もしくは自分で見つけるべきものなのかもしれない。ですから常にその答えを自分の中で用意しなくてはいけない。これもまた、よく学生に教えることです。

・事実はナマモノ、すぐ腐る。
・書くことは残すことじゃない。消すことだ。

 「クリエーティブとは全くのオリジナルで0から作り上げていくのが素晴らしい」と思われているかもしれませんが、シェイクスピアの時代まで遡ると全く違います。そんな感覚は全然なかったんです。

 シェイクスピアの書いた戯曲にはどれも元ネタがあるんです。たとえば『ロミオとジュリエット』。あれはそういう事件があったんです。それをアレンジして、シェイクスピアが戯曲にしたんです。誤解されがちなんですが、彼が評価されたのは戯曲として舞台で演じられるように書いたという部分なんですよ。ですが、面白いことに元ネタとなった事件は誰も覚えていないんです。ですが戯曲に仕上げると400年も語り継がれる。

 寺山修司さんが「事実はナマモノ、すぐ腐る」と言ったんですがまさにその通りで、戯曲という嘘にしてしまうと、いつまでも生き長らえるんです。事実は消耗されていくだけだけど、クリエーティブというフィルターを通すことによって何百年も人々の記憶に残る。クリエーティブってそういうことでもありますよね。

 それと寺山さんは「書くことは残すことじゃない。消すことだ」とも言っていました。それはつまり、クリエーティブというフィルターを通せば作品は残るんですが、自分は消えていくんです。小説でもなんでも、自分を消化していく作業なんですよ。

・頭でこねくり回している間はまだ“本当のクリエーティブ”ではないんです。

 おそらくその言葉が強く記憶に残っていたのでしょう。私は2年ほど前にレシートをまとめた本を作ったんです。レシートみたいな感熱紙に印字された文字は、いずれ消えてしまう。つまり白い本が完成するんです。そこが面白いポイントなんです。真っ白に戻ってしまう。なんにもなくなってしまう。そういう本を作ったんです。

 ほかには、1文字1文字を黒糸で縫った本。全ページが透明フィルムで1文字ずつ印刷された本を作ったんです。つまり1ページ開くと全部の文字が読めてしまうんですよ。本というのはなんであるのかを本で表現したんです。

 一番気に入っているのが黒くなる本です。印画紙にシルクスクリーンで黒に印刷して、そして定着液につけないまま箱に本を入れたんです。読むためには箱から出して、広げる必要があるでしょう。そうすると明かりでみるみるうちに黒くなっていくんです。読むスピードと黒くなるスピードを競う本なんですよ。

 このようにさまざまな作品を作ってきましたが、まだまだ作り足りないです。やはり過去の自分を超えたい、という思いが強いんですよ。それはきっと原動力と言い換えてもいいでしょう。とにかく前の作品よりもいいものを作らなくては、と自分を鼓舞するんです。

 制作を続けていくと、ふとした瞬間に憑依状態とでもいうのか、自分でも「抜けた!」と思えるような感覚があるんです。それは役者さんにインタビューしたときもよく言うんですが、自分で考えて演技しているつもりが、あるとき自分の意図しない言葉がふと口をついてしまう。

 これは祖父の萩原朔太郎も同じことを言っていたそうですが、自分の詩が書き終わったとき、なぜこれを書いたのかそれが自分自身で理解できなかったらしいです。ですが1ヶ月、1年経ってから読んでみると「なるほど、自分はこういうことを書いていたんだな。」と、合点がいったらしいです。それがまさにクリエーティブと呼べるのではないでしょうか。頭でこねくり回している間はまだ“本当のクリエーティブ”ではない。そこから突き抜けてこそが、本当のクリエーティブなんです。

・私事を私たち事に変える。それがクリエーターの役割なんだと思います。

 それと最後にもうひとつ。クリエーターとは、「炭鉱のカナリア」なんだと思います。一番先頭に立つ必要があるんです。

 ある意味自分を追い込んでいるとも言えますし、自発的ならばそれは楽しんでいるとも言えます。ですが、きっとどこかで世界はこっちの方向へ進んでいくと、予知をしているのではないかと思うのです。

 世界を先導すると言うと、少し大げさでしょうか。とにかく第一人者になる。初めは個人で、いわゆる私事なんですが、それがいずれ私たち事に変わる。いやきっと私事を私たち事に変えるのがクリエーターの役割なのかもしれません。